半壊した嗜好品の数々。

傲慢に我を強め、やがて、はちきれんばかりに肥大してしまったエゴ(ego)が自分のこれまで培ってきた事柄のいずれもが虚無であったことを思い知る。


認められた過ぎた。

行き過ぎた認証欲求は人格を破綻させ、創造はせず、ただただ破滅へと向かわせる。


自分の周りには、これまで馬鹿みたいに頭が良いと思うような奴が思う出す限りでは数人しかいないものだから、こんなになってしまったのだ。

何と言う醜態を晒した状態であろう。
あまりにもなにもが空白でありすぎた。
出直すにも遅すぎる。


大学二回生ともなればみな自分の思い描いてきた青地図に沿った研究やなにかに没頭しているものであろう。

しかし、特段すごいことをしている人はほぼ誰もいない。

自分の学び、培ってきた「知っている」をまた違う何かに変換している。

わたしは……。


違う。

やっていることは沢山あるし、スケジュールもめいいっぱいに詰め込んで、毎日1時間刻みで時間、予定に追われる日々を送っている。

しかし、6月から糸の切れた凧の様に大学にもろくに行かず、思索に耽り、やりたい研究にのめり込み、親から貰った金で欲望の限りを尽すという「愚行」を日々犯し続けた。

客観的に俯瞰すれば自分がますますコンプレックスの蟻地獄、底なし泥沼にはまっていることがわかったかもしれなかったが、他人からの目なんて正直どうでも良かった。



海底山脈に取り残されたわたしを誰もが救済せず、只管拒み、拒絶を繰り返す。

私の代わりの代替物なんて歩けばそこらに転がっているからだ。


唯一無二の存在になれなかったわたしは今日も代り映えしない海底山脈の麓にポツンと取り残され、周りの人間は如何にも愉しそうに楽しくもない世界を満喫しているのを観察する日々を送っている。

努力しても叶わない、敵わない事など周知のことながら五萬とある、そんな報われない僻んだ人生をそれで謳歌、桜華したと言えるのか?

そんなために生まれてきたならこのような体にはなっていない。


わたしの中には一体だれがいるのか。


責任者はそいつか。

息を立てずその””わたし””を見ていれば中からドロっとしたどす黒い色をした誰かが出てくると言うのか。


そいつはきっと少し笑っている。
わたしを嘲笑うかのように。


私が一体何をしたというのか。

一生懸命、他人に体たらくな様を見せ、他に誇示してきたとでも言うのか。

揺れた歪んだ世界だ、そんな壊れた社会性の中になんてもういたくもない、見たくもない。

そんなことならわたしをこれからは見て欲しくないし、存在を認めてすら欲しくない。

ただ覚えていて欲しい、矛盾した感情が心の奥底から沸き上がり脳に間欠泉の如く勢い良く現出する。

誰か誰も分からぬ世界の仕組みを半壊した精神を有する個人、わたしに教えて欲しい。

みんな基本的なことを繰り返し反復し、指針なる道しるべ(道標)を見つけ、先に進んでいく。

難しい事は必要ない。

ただでも現日本社会はこむずかしい理念、理論を理解する人間よりも多種多様な情報の嵐をしっかり切り抜け整理、判断できる人間を求め、そのような奴から救済の手を差し伸べているのだ。

考えるなら基本に戻れ。

それが正解かもしれねとそう思うのだ。


壊れているというならそれで結構。

わたしはもう普通の人間には戻れないことは理解している。


出戻るには何もしなさ過ぎ、そして何かとさまざまなことに手を出しすぎた。

1つ1つ完成形に近づける必死の忍耐力がより必要になり始めた。
そのためにも初心に戻り、基本に帰ることも必死であった。


さあ、創造しようではないか、期は決したのだ。